退職した従業員に対する受講料返還請求の可否 ~長崎地裁令和 3 年 2月26日判決(労働判例1241号19頁)

この記事を執筆した弁護士
弁護士 五十嵐 亮

五十嵐 亮
(いからし りょう)

一新総合法律事務所
理事/弁護士

出身地:新潟県新潟市 
出身大学:同志社大学法科大学院修了
長岡警察署被害者支援連絡協議会会長(令和2年~)、長岡商工会議所経営支援専門員などを歴任しています。
主な取扱分野は企業法務全般(労務・労働・労災事件、契約書関連、クレーム対応、債権回収、問題社員対応など)、交通事故、離婚。 特に労務問題に精通し、数多くの企業でのハラスメント研修講師、また、社会保険労務士を対象とした労務問題解説セミナーの講師を務めた実績があります。
著書に、『労働災害の法律実務(共著)』(ぎょうせい)、『公務員の人員整理問題・阿賀野市分阿賀野市分限免職事件―東京高判平27.11.4』(労働法律旬報No.1889)があります。

事案の概要

当事者

原告(X社)は、日用雑貨等を扱うディスカウントストアを経営する株式会社である。
被告(Y)は、X社の従業員であった者であり、薬品の登録販売者の資格を有していた者である。

雇用契約及び提訴に至る経過

Yは、X社との間で平成23年8月1日、労働契約を締結し入社した。


Yは、平成24年3月、エリア長と店長から、正社員になるためには必須条件であるとして、X社の完全子会社であり、医薬品の製造販売会社であるA社が開催するセミナー(以下「本件セミナー」という)を受講するように言われた。


本件セミナーの内容は、主に、季節の疾病の諸症状や医薬品を中心とするA社のプライベートブランド商品についての説明である。

Yは、本件セミナー受講に際して、「教育セミナー受講誓約書」(以下「本件誓約書」という)に署名押印した。

本件誓約書には、「教育セミナーを受講期間中もしくは受講終了後2年以内に退社した場合は、会社が負担した全ての費用を全額返納します。」との記載がある。


Yは、平成24年4月25日から平成27年8月19日までに合計19回の本件セミナーを受講した。

Yは、平成25年6月1日、X社の正社員となり、平成28年10月2日、X社を退職した。

X社は、Yに対し、本件誓約書に基づいて受講料合計37万5895円(交通費・宿泊費も含む)を返還するよう請求した。


Yが、本件誓約書は労働基準法16条(違約金の禁止)に違反し無効であるとしてこれを拒否したため、X社がYを提訴した。

本件の争点

本件の争点は、本件誓約書が、労働基準法16条に違反するか否かという点である。

裁判所の判断

裁判所は、以下の理由により、本件誓約書は、労働基準法16条に違反するとし、本件誓約書の内容は無効であり、受講料の返還請求はできないと判断した。


本件セミナーは、プライベートブランド商品の説明が主であり、その内容に汎用性を見出しがたく、他の職に移っても本件セミナーの内容を活かせるとは考えられないこと

X社の正社員となるための要件として受講したものであること

受講料の金額は事前に知らされていないこと

受講料の金額はYの手取り給与額(約18万6000円)と比較して高額であること

本件誓約書の内容は、従業員の「退職の自由」を制限するものであること

本件のポイント

労働基準法16条に規定される「違約金の禁止」は、労働契約の途中に退職した場合に違約金を定めることなどを禁止するものです。

そのような定めがあると労働者の退職の自由が不当に制限され、不当な労働環境から逃れられなくなってしまうからです。


一般に、企業において、研修費用や留学費用等の返還の合意をすることは広く行われているところです。


裁判例の傾向としては、研修や留学は使用者が資本を投下して労働者個人の能力を高めるものであるため、一定期間勤務した場合には返還を免除するという趣旨であれば、労働基準法16条には違反しないと考えられています。


他方、海外研修・留学が業務命令として行われたものであったり、研修とは名ばかりで実体が業務と変わらないような場合には、違法とされる傾向があるようです。


本件は、裁判所も指摘するとおり、セミナーの内容がもっぱら自社のプライベートブランド商品の説明であり汎用性のある内容ではないことや正社員の要件とされていたことから、労働者個人の能力を高めるというよりも、「業務性」の色合いが濃いものと評価されたものと考えられます。


また、事前に受講料の金額が知らされていないという点も問題でしょう。


このように、研修費用等の返還の制度は、広く普及している制度ですが、内容によっては、違法・無効とされる場合がありますので、注意が必要です。

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※【労働基準法】第16条
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。


<初出:顧問先向け情報紙「コモンズ通心」2021年9月5日号(vol.260)>

※掲載時の法令に基づいており、現在の法律やその後の裁判例などで解釈が異なる可能性があります。

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