政権の継承〜遠きから見ゆること〜(弁護士:和田光弘)

 

最近、日本歴代最長政権の首相が、病を理由に交代され、その右腕とも目されてきた官房長官が新たな首相となられた。

 

私自身は、弁護士として、また人権という世界共通の価値基準を標榜する身として、政治との距離を考えながらも、すでに齢六十六を数える。

論語からすれば、「六十にして耳順(したが)い、七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず」の中間ぐらいの心境のはずだけれども、実は、まだ幾分か血の気が多く「十有五にして学に志す」の方が近い気がしてならない。

 

私自身、十五歳のときは中学校の生徒会長をやったぐらいで、それ以降、新潟県弁護士会の会長や弊所の理事長にはなったが、自分の性格はむしろ二番手の方が性に合っているように思う。

 

一国を率いるリーダーたちの生き様を感じたのは、司馬遼太郎の「峠」を読んだ時かもしれない。

 

この小説の主人公は、我が新潟県長岡市の河井継之助(かわいつぐのすけ/文政10年1月1日(1827年1月27日)〜慶応4年8月16日(1868年10月1日)「ツグさー」と呼ばれていたらしい。)の生き様だ。

どこまで真実かはわからないけれども、芸者遊びも大酒飲みも博打もやったという結構ヤンチャなツグさーが、備中松山藩の大家老山田方谷(やまだほうこく・文化2年2月21日(1805年3月21日)〜明治10年(1877年)6月26日)に、経世の哲学と藩政改革を学びに行くことから物語は始まる。

 

この山田方谷は、司馬遼太郎も冒頭に触れているように、日本で唯一、駅の名前(方谷駅)となった人物で「備中聖人」とも言われ、のちに天皇に対する将軍徳川慶喜の「大政奉還上奏書」の原案を書いた人物とされている(当時、方谷の主君板倉勝静が老中であった。)。

この人は、大河ドラマで取り上げてもいいぐらいの波乱万丈の生涯を送っているが、中でも藩札の信用を保つために市中の藩札を集め河原で燃やした話は有名である。

また、幕末の戊辰戦争で、主君の板倉勝静が老中のため幕府側に立たざるを得なくなった渦中にあって、主君を隠居させ、新藩主のもとで松山城を明け渡し、領民を戦火から救った史実も果断な判断として後世に伝えられている。

 

ツグさーは、この山田方谷ばりの藩政改革を断行した。

 

博打も禁止し、夜遊びも禁止した。

節約を断行し、幕末の武器商人からガトリング砲(機関銃の大型版)2台を購入し、西郷隆盛の弟吉次郎を北越戦争で戦死させた。

新潟県が「長岡県」とならなかったのは、このことが影響しているとまことしやかに伝えられている。

 

結局、独立を目指した長岡藩は、官軍と戦火を交え、責め立てられたツグさーは会津藩への敗走中に、傷が元で現在の三条市下田付近で死亡した。

 

ツグさーの師匠の山田方谷は、藩主を取り替え、領民を戦争に巻き込まなかったが、ツグさーは結局戊辰戦争に領民を巻き込んだ。

司馬遼太郎は、小説を書いてから、ツグさーに対して長岡の人々が冷たいと憤慨していたという。

 

歴史における民衆の気持ちの違いなのかもしれない。

 

藩主は、今でいう一国のトップであろう。

家老はおそらく官房長官に相当するのではないか。

 

新しい宰相は、「政権の継承」を掲げて政権与党の多数派の支持を受けたが、どうも前政権の危ういところまで引き継いだ感がしてならない。

 

前首相はけっこう憲法抵触行為が多かった(国会を開かないなど)。

 

集団安全保障法制の整備にあたって、憲法9条の解釈を変更したやり方は、憲法に違反する。

 

これは、どう見ても「憲法違反」としか言えないとする内閣法制局長官の人事権行使による交代からはじまった。

「個別自衛権」を超えることはできないという意見が憲法学者の7割を超えたのに、外務省出身の官僚を法制局長官に初めて抜擢した。

その交代の際に、前長官が乗り込んだ車の中で「憲法と国際法とどちらが優先すると思いますか」との問に、新長官は黙り込んでしまったという。

 

法を枉げる官僚は残り、法を遵守する官僚は飛ばされる。

 

前政権の官房長官(現首相)は、これをまさに実践してきた方と言って良いのだろう。

 

2014年にふるさと納税に異を唱えた官僚を異動させた。

 

2017年、日本弁護士連合会による最高裁判事の推薦者リスト外であり、弁護士にはなっていたが長年学者をやってこられた方を任命した。

安保法制反対の日弁連の活動が政権の判断に影響したと言われている。

 

2020年、検察庁による検事総長の推薦候補者に対して承諾せず、特定の方の定年延長によって検事総長の就任を図った(その後、同人の辞職により実現しなかった。)

 

そして、日本学術会議の候補者リスト105名のなかから、政権に対して何らかの批判的活動をした学者6名を任命しなかった。

 

これらは、最後を除いて、現首相が官房長官時代に行った人事である。

 

「ならぬものはならぬ」

 

これを教えるは、戊辰戦争で敗軍となった会津藩である。

 

福島出身の自民党の政治家で伊東正義(1913年12月15日〜1994年5月20日)という人物がいた。

大平正芳首相(1910年3月12日〜1980年6月12日)の政権時に官房長官を務め、同首相死亡後、1ヶ月間首相臨時代理となった。

また竹下登首相(1924年2月26日〜2000年6月19日)がリクルート事件で辞任した際にも1ヶ月だけ首相臨時代理を務めた。

 

彼は、周りが首相を勧めても遂に首相にはならなかった。

特に後者の竹下後は、「表紙が変わっても中身が変わらなければダメだ」(当時の自民党の金権体質を批判)と言ったという。

 

内閣総理大臣は、憲法を尊重し擁護しなければならない憲法上の義務がある。

 

これを破る人にはやめてもらわなければならない。

が、交代によって「表紙」だけ変っても、憲法違反を続けたのでは意味がない。

 

せめて法令を遵守するのは、首相の礼節というものではないだろうか。

 

一国のトップが礼節を欠けば、人心は荒れ、正義は破綻する。

国のあり方にまで影響が及ぶ。

 

携帯電話の値下げやデジタル化も、不妊症の保険適用も、政策としては受けが良いかもしれないが、本当にその任に耐えていくには礼節として「ならぬものはならぬ」という人に耳を傾ける度量が求められる。

 

子曰く「よく礼譲をもって国を為(おさ)めずんば礼を如何せん」。

 

 

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この記事を執筆した弁護士
弁護士 和田 光弘

和田 光弘
(わだ みつひろ)

一新総合法律事務所
理事長/弁護士

出身地:新潟県燕市
出身大学:早稲田大学法学部(国際公法専攻)

日本弁護士連合会副会長(平成29年度)をはじめ、新潟県弁護士会会長などを歴任。

主な取扱い分野は、企業法務全般(労務・労働事件(企業側)、契約書関連、クレーム対応、債権回収、問題社員対応など)。そのほか、不動産問題、相続など幅広い分野に精通しています。
事務所全体で300社以上の企業との顧問契約があり、企業のリスク管理の一環として数多くの企業でハラスメント研修の講師を務めた実績があります。